先生ブログ
相談
2019年10月29日 0:29
先日とある生徒から 相談を持ち掛けられました。
「なんか、最近仲良かった友達があからさまに僕を避けているんですよ」
「何か きっかけとかってあったの?」
「僕も受験生なんで 学校での合間の時間にも勉強してたらあいつは変わったとか言われて、 話に行こうとしたら あっち行こうぜって避けられたんですよ。どう思いますか?」
「まあ君がどうしたいかだよね。一番は。どうしたいの?」
「仲良くするために、勉強をするのはやめて、あいつらと一緒にいようかなって思います」
「そうか。それならそれでいいと思うけどさ、お前逆の立場だったらそういうことするの?」
「しないですよ。あほらしいじゃないですか。」
「そうだよ。あほらしいと思うよそんなこと。でもそんなあほらしい基準の連中と合わせていくってことだよな?」
「うーん確かにそうなりますね。それってメリットあると思いますか?」
「俺が君の立場ならでしょ?メリットあるはずないじゃん。友達が頑張ろうとしているのを、ねたむ人種と一緒にいるメリットは無いよ。まあ自分が君の様な中学生ならそう思うね。今はもちろん そういう彼らをどうモチベーション作ろうかって考えるけど、中学生でそんな余裕はないよな」
「はい。自分のことで手いっぱいで彼らをどうやる気にさせるかって、そこまで自分にはやれないのが悔しいですね」
「やれなくていいよ。 姿をね、君が変わってゆく姿を見せるだけで十分に価値がある。すぐに理解は出来なくてもなにか彼らの記憶に残ってれば、どこかの時点で、あいつ凄かったな。俺も頑張ろうかなとかなる場面があるかもしれないだろ」
「そんな影響力ある人間に僕がなれますかね?」
「いや、もうすでに影響与えてるじゃん。君と一緒にいると辛いと、彼らは思ってるんでしょ?なんか俺たちとは違うんじゃないかと思われてるわけでしょ。あいつ最近まぶしいなって。基準が高くなっていることが成長だから、そうすると、今まで気が合ってた人との基準値が、もう合わないな。ってなってしまうことは仕方ないよ。あるんだよ。そういうことは。むしろ優しくしてやれ。」
「そうなんですね。出来るかなあ。でもこういう時に 何を基準に自分の選択を決めたらいいんですか?」
「それは実は簡単だよ。今の自分に一番大事なものはなんなのか、それを基準に考えたら良いよ。一時的なマイナスな気持ちにひきずられると、優先順位を間違えちゃう時がある。それは避けたいだろ?そうした時に 冷静に考えて、整理する、分析する。それが大事だし、そうした力を養うために、君たちは学生時代に勉強してるんだよ。」
「わかりました。ちょっと考えてみます。ちゃんと考えます。」
「良いと思うよ」
「なんかまたあったら相談していいですか」
「いつでも言って」
勉強をする意味って、ずっと語られてる議題ではありますよね。
ローマ帝国を作ったユリウスカエサルは、人間の最も尊い生き方の指針に「寛容性」というものを上げていて、色んな価値観を許す、認める、それはすなわち深く理解をするということで、これを国家の指針に掲げました。
私の好きな作家のひとりである佐藤優も勉強する意味として「寛容性」を身に付ける為だと書いていました。様々な価値観に触れる、学ぶことで、恐怖感が無くなるから差別しない、拒絶しない。だから相手を許せる。受け止められるようになると。
ただそれは 何でも許す、何でもOKという意味ではないでしょう。この線は越えるのはやめようお互いに、という大人のルールがあった上で相手を認め合う。そんな最低限の信頼関係は必要でしょう。
自分の中に指針がある、生き方や価値観の柱があり、そうした強さを持っている人間だけが線引きを自分の中に持っていて、その範囲の中で寛容性を保てる。 つまり許すこと、が出来る。そして自分自身の生き方に対して価値があると思ってるからこそ、本当に相手の価値も認めてあげることも出来るのだと思います。
上に上げた彼は今日も早めに塾に自習に来ました
「先生、この間の彼らのことなんですけど」
「君と話をしない彼らね」
「可哀そうな子たちなのかなと思って、もう放っといてます。話して来たら相手はしますけど、お前らもがんばれよ、って心の中では思ってます」
これが寛容性かなと思いました。 成長しましたね。